退院してわずか18日。
連日の体調不良が続いていましたが、「ただの風邪かもしれない」と思っていました。
しかし、この日が再び長い入院生活の始まりになるとは、この時はまだ思ってもいませんでした。
近所の内科を受診することに
市販の風邪薬を飲んでも大丈夫なのか分からず、近所の内科へ電話をしました。
週明けということもあり電話はなかなか繋がりませんでしたが、ようやく予約が取れ、11時に受診することになりました。
病院までは歩いて1分ほど。
一人で行こうと思っていましたが、ちょうど外に出ていた妻が一緒についてきてくれました。
30歩も歩けなかった
外へ出ると、天気が良すぎて世界が真っ白に見えました。
網膜症の影響で視界は悪く、さらに呼吸も苦しく、まともに歩くことができません。
妻に手を引かれながら30歩ほど歩くだけで息が切れ、病院へ着く頃には呼吸が止まりそうでした。
受付で保険証を渡すと、そのまま椅子へ倒れ込むように座り込みました。
その様子を見た妻も、「何かおかしい」と感じていたようです。
「救急車を呼びます」
診察室へ呼ばれ、問診、レントゲン、採血を行いました。
すると、先生が慌てて診察室へ戻ってきて言いました。
「元いた病院へ戻って入院してください。」
「肺に水が溜まっています。」
「酸素濃度が75%しかありません。」
「すぐに救急車を呼びます。」
最初は父の車で病院へ向かおうとも考えました。
しかし、自分自身でも「これは普通じゃない」と感じていましたし、受け入れ先の病院からも「危険なので救急車で来てください」と言われました。
こうして、人生で初めて救急車に乗ることになりました。
人生初の救急搬送
家へ戻ることも許されず、そのままストレッチャーへ。
救急隊員の皆さんが手際よく心電図や酸素の装置を装着していきます。
父が消防士として救急車にも乗っていたことを思い出し、
「親父はこんな仕事をしていたんだなぁ」
と、不思議とそんなことを考えていました。
サイレンを鳴らしながら約20分。
病院へ到着しました。
救命病棟へ
運ばれたのは救命救急。
ドラマで見るように5〜6人の医師や看護師さんが一斉に処置を始めます。
走馬灯のように時間が過ぎていく中で、今でも覚えていることがあります。
- 尿カテーテルを入れた時の激痛
- 後に主治医となる女医さんの言葉
「我慢しすぎです。」
「明日だったら間に合いませんでしたよ。」
その言葉を聞いて、
「本当にそんなに危なかったのか。」
と、ようやく自分の状況を理解しました。
肺に水が7割近く溜まっていた
普通の酸素マスクでは酸素濃度が改善せず、CPAP(シーパップ)のような強い酸素マスクを装着することになりました。
肺には7割近く水が溜まっていたため横になることもできません。
呼吸は苦しく、マスクも苦しく、朝までほとんど眠ることはできませんでした。
救命病棟での夜
処置が終わると救命病棟の個室へ。
心電図モニターが並び、酸素マスクが少しずれただけでもアラームが鳴る厳戒態勢でした。
意外にも、自分自身は死への恐怖はありませんでした。
ただ、この時、家族には
「いつでも連絡が取れるようにしてください。」
と伝えられていたことを、私は後になって知ります。
妻と父が入院の荷物を持ってきてくれました。
別れ際、妻は今にも泣きそうな表情でした。
そんな妻に私が必死に伝えたのは、
「会社から問い合わせが来ているから、対応できないって伝えておいて。」
ということでした。
今思えば、あれが妻との最後の会話になっていてもおかしくなかったのです。
心不全による再入院
医師からは、心不全を起こしていること、体や肺に溜まった水を利尿剤で排出していくことが説明されました。
尿カテーテルから大量の尿を出しながら、長い治療が始まります。
こうして私は、退院からわずか18日で再び入院生活へ戻ることになりました。
朝まで眠ることもできず、苦しい呼吸器をつけたまま、長く苦しい夜を迎えたのでした。